月宮シリーズ

月宮 1988~89

全12点。初出は1から4は北九州市立美術館の個展、5から12は《第19回現代日本美術展・現代絵画の展望―祝福された絵画》において東京、京都、高松、船橋、北九州、広島において公開された。

一見して目を引くのが画面上部の襞状の凹凸である。これは実際にキャンバスに布を張り付け絵具で塗り込めたものである。

“物と平面の融合”は前々作《天動説》で現れ、前作《月光》においては絵具の塗り重ねによる凹凸に収斂されてモノは姿を消し、「オブジェを絵画でねじ伏せた」かに思えた。

再びのモノの登場は「ねじ伏せたように見えて実はそうではなかった」のか?

ヒントは月宮の制作過程にある。

《月宮》として発表された作品群は、当初のシリーズタイトルは《海》であり、絵具の塗り重ねだけで構成された全くの平面作品であった。

サイズも330×200のキャンバスを横に二枚つないだものを一組として《暖流》《寒流》とする予定であった。

「かねてから狙っていた次の新しい仕事「海」シリーズに取り組んでいたが、仕込みが十分に練れていなかったのか、出来上がった作品がどうにも気に入らない。」(1988 北九州市立美術館・菊畑茂久馬展図録より)

何が気に入らなかったのか?

「私の周辺に絵画への『き伏(“き”は足偏に危)』がせまっていた」

「『手業』は未だずっと後でいい。~中略~『手』のあばれはいつも『絵画』の方へ雪崩ていく」(同図録より)

要するに「手クセで描いてしまった」と言っているのだ。

僕も多少絵の心得があるので分かるのだが、絵画表現を覚えるとつい手クセで描いてしまうのだ。樹木はこう描く、水の表現はこう、ハイライトはこう付けるetc. 樹木や水を描く事より遥かに高度な絵画表現をやっていても「手クセ」は付いてまわる。

《月光シリーズ》でようやくオブジェをねじ伏せたと思ったら、今度はその方法論で絵画にねじ伏せられた。そう感じたのだろう。

オブジェと絵画は常にせめぎ合う関係でなければならない、どちらかの一人勝ちなどありえない。俺はつい絵画的表現の安易さに日和った、ならば《海シリーズ》は保留だ。もう一度せめぎあいの戦場に戻らなければ…

息子の想像でしかないが、茂久馬の心情としてそう間違った解釈ではないと思う。

かくして展覧会直前に《海シリーズ》として描き始められたキャンバスには布が釘打ちされ、それを分厚い絵の具で塗り込めて行く作業が始まった。下絵段階で見るとその布は鮮やかな赤や青の原色である。その原色をくすんだ青灰色で塗り込めて行く。「色彩を疑え、絵画的技法に取り込まれるな」そう言っているように見える。

《海》は《月宮》と名を改め《月光》と地続きになった。

「オブジェと絵画の戦いはまだ終わっとらんやったごたぁ。終わっとらんのにシレッと《海》やら描けんもんね。一旦《月光》の所まで戻ったとたい」

《月宮シリーズ》とはそういう苦しい撤退戦だったのだ。

付記 茂久馬のプライベートな環境を考慮すると、88年という年は2月に義母静子が亡くなり、西日本新聞で「絶筆」の連載を持っていて何かと周辺が慌ただしい時期であった。「絶筆」は著名画家の最後の作品について解説を加えるというなかなかに気骨の折れる仕事であった。50を過ぎた自分の年齢とも相まって「死」というものをほのかに意識し始めた時期でもあっただろう。つい手クセに走ったのもそういう気分が影響したのかも知れない。          
23年3月 菊畑拓馬