モクさんのアトリエ①

長男でイラストレーターの拓馬氏が語る、菊畑茂久馬の作品制作の裏側。
今回、制作中は本来家族すら入れなかったアトリエに「侵入」した幼少期の記憶を呼び起こして、拓馬氏の手書きイラストと解説をお届けいたします。(producer Y)

■アトリエのこと~竹やぶの人■

その人は竹やぶの中に居ました。

福岡市の南の端の延々と田んぼの拡がる風景の中にポコンと竹が密生した一画~その人は無造作に生え散らかした竹林の半分を切り倒し二階建ての家を建てました。
一階にアトリエと台所、ふろ場、三畳の客間と板の間、二階に寝室という間取りでした。昭和33年頃の事です。

「100万円かかったとぞ」とよく言っていました。当時の大卒初任給が1万3千円程ですからなかなかのものです。

2年ほどすると義父母と同居する事になりました。
「100万円の我が家」は4人で住むには手狭過ぎました。翌年には子供(拓馬)も生まれます。

一階のアトリエ部分は居住スペースとして明け渡さざるをえませんでした。

画業には支障が出ますが、元々は義父が買った土地なので文句は言えません。

残った竹やぶを切り開いて新アトリエを作る事にしました。

「アトリエと言ったって、雨風がしのげる20畳くらいのがらんどうのスペースがあれば良いんだから、大工に頼むのはバカらしいな。よし、自分で建てよう!」

令和の人には想像もつかないでしょうが、昭和35年頃の日本人にとってちょっとした小屋くらいは自力で建てるのが当たり前でした。

“ちょっとした小屋に毛の生えたくらいの建物”だから自分で出来ると踏んだのでしょう。
実際電気の配線を専門家に頼んだ以外は、知り合いの大工さんに指導を受けながら自力で建ててしまいました。

あいまいな基礎の上に柱を立て、防腐のための焼きを入れた幅15センチほどの板を外壁に、厚さ7ミリのベニヤ板を内張りと床に、むき出しのトタン板で屋根をふき、ガラスを切って窓を作り、真鍮製のドアノブを買ってきてドアを作り、アトリエは完成しました。

断熱?防音?ゼロです。

真冬はカチンカチンに冷えるので、ベニヤ板で1m50㎝くらいのコの字型の箱を作り、文字原稿を書く時にはその中で仕事をしていました。
ようやく春になって仕事がしやすくなると今度はタケノコが床を突き破って生えてきます。
そのたびに床下に潜ってタケノコを掘り出します。床を突き破るようなタケノコはもう硬くて食べられません。飼っていた山羊の餌です。

アトリエの周囲は竹がたくさん残っていたので、2,3年もすると竹の葉がみっしりと降り積もりました。
ジメジメした竹の葉ジュウタンは生き物たちの温床となり、ありとあらゆる隙間から彼らは侵入してきました。天井の梁からアオダイショウが落ちて来たことも一度や二度ではありません。
アオダイショウならそのまま外へ放り出し、マムシなら手製の捕獲棒で捕まえて焼酎漬けにしていました。

原始人のような環境でしたが、そんな中で誰に見せる当ての無いオブジェを作り、藤田嗣二をはじめとする戦争画について調べていました。1964年から1983年の「天動説」の発表まで、世間的には「沈黙の時期」言われた20年間の半分以上はこのアトリエで過ごしました。

「期待の若手画家」という評価にも万博のお座敷にも背を向け、農村の竹やぶの中に身を潜め絵の事だけを考える場所。テレビもラジオも水道すらも無い場所。そんな空間が「天動説」へ至る思考の純度を高めてくれたのでしょう。
その後、福岡市の中心に近い場所に家を新築し機能的で小ぎれいなアトリエも併設(もちろん大工さんが建てました)しますが、僕にとって、そしておそらくは本人にとっても“アトリエ”と言えばあの竹やぶに埋もれた隙間だらけの空間であったろうと思うのです。

もはや竹やぶは跡形もなくなり、田んぼは宅地に姿を変えましたが、今でも竹やぶの奥から呼ぶ声は覚えています。

「おーい、ハイライトば買うてきやい!」

近しい人間にとって、あの人は“竹やぶの中の人”でした。

2022年4月8日 Takuma Kikuhata