1990~1997(2003)
◆解説は長男の菊畑拓馬によるもの。家族として接した者でしか分からない菊畑茂久馬と言う人間と、膨大に残っている書斎にある資料を基に解説しています。(producer.Y)
初出は1990年、東京画廊にて前半8点後半8点の全16点にて発表された。但し3,5,7,13番以外の作品は大幅に加筆修正されている。
4,6,9,10,11,12,14番は97年から2003年の間に大幅な修正が施され、残る1,2,8,15,16番は廃棄された。しかし何故か8番だけは廃棄を免れ現在も画家のアトリエにて90年発表当初の姿を保ったまま眠っている。
修正前と後の作品を比較して見れば一目瞭然だが、その様相は全く異なっている。
参考に《海道9》のオリジナルと修正後の二枚を上げる。


オリジナルは画面下に細筆による軽やかなタッチで白い線が蝟集する。
波頭であろうか?この無数の白い線はオリジナル海道において1から16まで共通しており、軽やかなドローイングの線による表現を施された作品は海道以外にはない。
『もともと出自から絵画を蹴散らして走り続けて来たはずだ。ことここに至って、絵画の愉悦を想うとは何たることか?』(1990・海道図録前文より)
本人もドローイング部分を大いに意識し「安易に絵画的表現に走って良いのだろうか?」という行きつ戻りつの逡巡が見られる。
前作《月宮》では、発表直前に大幅に軌道修正して、全作品に布を塗り込めるという作業で純粋な絵画表現との距離を保った。
そして今回絵画表現のみの勝負に出た。
《「海」という言葉は、いわば私の絵画を全開させるバルブのような役割になっていた。》(同図録前文より)
絵画に戻るならばそのテーマは海。
ずっと前から決めていたのだろう。小学生の頃預けられていた五島の海か?母親の遺骸を焼いた姪浜の海か?三歳で死別した父親が漁に出ていた志和峡の海か?
《月光》や《月宮》のややくすんだ青とは異なる明るい青に白い波頭が躍る。春の明るい海を思わせる。
9~16になると波頭は画面の隅に押し下げられ、代わって青い空間が主題となる。
まさに絵画的表現全開である。こんな軽やかなドローイングの表現は《海道》以前にも以後にも無い。
冒頭に紹介した図録の前文にある「絵画の愉悦」に浸っているのだ。
「絵筆で表現して良いのなら、いつでもこれ位の事は出来るのだぞ」
と言っているようだ。
しかし「これ位の事」はこれ位の事でしかなく、《海道シリーズ》は97年以降白い波頭を塗りつぶし重い青一色の絵具の盛り上がりによる海へと姿を変えて行く。「絵画の愉悦」に浸った自分を封印するかのように。
なぜ封印したのか?
筆者が中学生の頃(1974年頃)こんなことがあった。
体育祭で使うゼッケンに学年とクラスを表す数字を書き込まねばならないのだが、どう書いたものか悩んでいると父親が通りかかった。「書いちゃろうか」と言うと油性のマジックを手にして二三度手首をコキコキと鳴らすと、手首が鞭のようにしなってあっという間に精密でバランスの取れた(1-6)の数字が出来上がった。
プロスポーツの背番号用にレタリングの職人が作ったような出来栄えだった。安物のマジックペンと書きづらい木綿の布、一分もかからなかった。
要するに絵筆を持てば(マジックペンでも)、どんなものでも描ける人なのだ。「頭で思い描いた線の通りに手首が動いてくれる」
プロの絵描きでもそれが出来ずに苦労している中、その段階は十代の頃クリアしたようだ。
逆に絵筆で何でも表現できるからこそ危ない。
そこに安住してしまうと、絵は様式化してしまう。武者小路実篤が描くようなカボチャの絵~そういう様式化を一番嫌っていた。写実でも抽象でもそれは同じだ。
「俺は様式美と化した波頭を描いてしまったのではないか?」
キャンバスからモノを取り除いて、残ったものが様式化されたドローイングであるならばそれはまだモノに負けているのだ。
それは自分が目指している未知なる絵画領域ではない。
他のシリーズに類を見ない廃棄点数の多さ、残った作品の修正の度合いからしても決して満足のいくシリーズでは無かったように思う。
ただ、描いている時は幸せだった。
廃棄も修正もされず、オリジナルの姿を残したままアトリエに眠る《海道8》。
菊畑茂久馬が絵画の愉悦に浸った、たった数カ月の甘美な記憶を留めて置きたかったのかも知れない。
2023年4月16日 菊畑拓馬



