…30歳まで…

菊畑茂久馬 1935.3.5-2020.5.21
●1935年(昭和10年)0歳
長崎県長崎市丸尾町に生まれる。父は捨吉、母はカツ。
名の「茂久馬」は、徳島生まれの父が、実業家「野村茂久馬」にちなんで名付けた。
●1938年(昭和13年)3歳
父 捨吉、急死。
●1940年(昭和15年) 5歳
母カツは、収入を得るため、長崎市の知人に茂久馬を預け福岡市へ働きに出る。
●1941年(昭和16年)6歳
長崎市稲佐町朝日国民学校に入学。
8月 福岡市立春吉国民学校に転入。1年ぶりに母との同居がかなう。
●1942年(昭和17年)7歳
母の仕事がままならず、上五島中通島で教職であった叔父の下へ預けられ、今里国民学校に転入。
今里国民学校の校長(1938-1942年)であった叔父は、後に五島内の国民学校へ転勤を繰り返し、茂久馬も一緒に中須国民学校など点々とすることになる。当時、五島の海で記憶された「青」が後の作品で表現されることとなる。
●1944年(昭和19年)9歳 警固国民学校へ転入し母との同居がかなう。
●1945年(昭和20年)10歳 福岡大空襲に遭遇。
焼夷弾が降り注ぐ博多の空の記憶は、後の作品で「赤」で表現されている。
●1947年(昭和22年)12歳 福岡市立警固中学校に入学。
●1950年(昭和25年)15歳 母カツ他界。
「死にゆく母の両耳を握りしめていた」と後に著作で語っている。
身寄りのなくなった茂久馬少年は、同級生の神谷龍之介氏の家に居候。
●1951年(昭和26年)16歳
4月 福岡県立福岡中央高校に入学。
簀子町に下宿をしたり、後に俳優となる米倉斉加年氏の家に住み込み、家業の燃料店を手伝いながら生活
●1953年(昭和28年)18歳
福岡中央高校卒業。
福岡市新天町商店街にあった共同アトリエ「青の家」で画家の木下新と出会う。
●1954年(昭和29年)19歳
岩田屋百貨店で素焼に客の似顔絵を描くアルバイトをしながら絵の勉強を独学で始める。その頃、高校時代の同級生であった温子(後に結婚)と再会。
●1956年(昭和31年)21歳
第24回独立美術協会展に出品 「二人」が入選。
●1957年(昭和32年)22歳
8月 岩田屋ホールにてグループQ18人展に出品 グループQは事実上の九州派。
11月 グループQアンフォルメ野外展
●1958年(昭和33年)23歳
3月 第10回読売アンデパンダン展(東京都美術館)「ポロック先生に捧ぐ」1~3出品。
初の個展「菊畑茂久馬展」(岩田屋美術画廊)
8月 九州派グループ展(銀座画廊)
11月 石井温子と結婚。石井家の敷地内に柏原にアトリエをDIYで作る。
●1959年(昭和34年)24歳
2月 寺田健一郎との二人展(銀座画廊)5月九州アンデパンダン展(西日本新聞社講堂)12月九州派を脱退
●1960年(昭和35年)25歳
第12回読売アンデパンダン展(東京都美術館)「葬送曲」No1~3を出品
●1961年(昭和36年)26歳
4月 現代美術の実験(国立近代美術館)「奴隷系図(貨幣)出品 7月九州派復帰
10月 長男拓馬誕生
●1962年(昭和37年)27歳
6月 菊畑茂久馬展(南画廊)「奴隷系図ー円鏡による」出品東京における初の個展
10月 九州派再び脱退
●1964年(昭和39年)29歳
3月 菊畑茂久馬展(南画廊)「ルーレットシリーズ」28点出品
この時期に炭鉱画家山本作兵衛氏との知遇を得る
●1965年(昭和40年)30歳
4月 ニューヨーク近代美術館の企画 The New Jpannese Painting and Sculptureに「ルーレット」3点出品
8月 神奈川県電業会館ビル外壁の陶板壁画を作成
※2025.1.14 更新 不定期更新
菊畑茂久馬の受賞歴
- 1989年 福岡市文化賞受賞
- 1996年 福岡県文化賞受賞
- 1997年 西日本文化賞受賞
- 2004年 第3回円空賞受賞
- 2011年 第53回毎日芸術賞受賞
一般社団法人菊畑茂久馬青家美術協会(MOKUMA KIKUHATA BLUE HOME ART ASSOCIATION)は、菊畑茂久馬のスピリットを受け継ぎ、その出発点となった「青の家」のように、まだ日の当たらぬ芸術家や子どもたちにチャンスを与え、交流をとおして化学反応を起こす…そんな機会を創りたいと思い、長男である菊畑拓馬を中心に設立しました。